9.K出版で出会った人々

川崎駅ビルでヒーリングショップを営んで、多くの人々を元気づけているという石崎洋壱氏に会ったのは、平成7年6月入社してすぐのときでした。
彼は「プレアデスかく語りき」の翻訳を大内教授にすすめた人でした。
この本は本当に多くの人々に影響を与えました。常盤貴子という女優さんもこの本を愛読しているということで、「私の一冊」というテレビ番組で登場しました。

私は出来上がったばかりの自分の名刺をもってあいさつに行ったのです。
さあ、ご挨拶と思ったら名刺がでてきません。
どのポケットを探しても見当たりません。
とうとうバッグを床において、一生懸命名刺を探すはめになってしまいました。
それでもどじな営業を笑うこともなく「ああ、いいですね。あなたがK出版に入社された方ですか。いいですね」と微笑んでいる人でした。
この不思議な出会いにずっと私は励まされて働くことができました。
何かにぶつかると不思議に石崎さんの言葉が脳裏によぎりました。(あなたのような人が来てくれてよかった……と言ってくださった)そんな思いに立ち戻ることができました。

店はそんなに広くはないのですが、水晶、本、ヒーリンググッズが見事に飾り付けられていました。
とても気持ちのよい場所でした。神秘的な感じもしました。
あとでよく聞くと石崎さん自身も本を出版したりセミナーをするという、これまた不思議な人でした。「マヤンオラクル」が出来上がると本当に喜んでくださって記念パーティにも出席してくれました。

出版社としてのコスモテンには、不思議な人々が次々と訪れました。
私が最初に出会った訪問者は座間さんでした。
社長を「ももちゃん」と親しく呼んでいました。
目のきれいな人でした。
お茶をもって行くと丁寧にあいさつしてくれました。
マヤのセッションのことが話題になって、マヤンオラクルを翻訳している話をするとまだ本ができるかどうかも分からない、その上そのときまだ版権も申請していなかったのに「その本ができたら私が予約第一号の読者になります。忘れないでね」と言いました。

それからときどき彼女からコンタクトがありました。
「情報よ」といってよく霊能者の話をしてくれました。
時々、私はその霊能者に会いに彼女とでかけました。
何でも知りたいという好奇心の強さは、私が生まれ持った特徴でなかなか消えません。

彼女とはなぜか話が合います。
K出版を辞めても付き合いが続き、いまだに姉妹のように心を通わせています。実際、彼女は私が困っていると必ず察知してくれ何度もお米を運んでくれたりしました。
10キロ以上の米をボストンバッグで中野駅まで届けてくれるのです。とくに私が腎盂腎炎で入院したときにも何度も見舞って励ましてくれました。

明田さんに出会ったのも偶然ではないと思います。
「マヤンオラクル」の編集をしてくれる人だといって、ある日社長が紹介してくれました。
しばらく話をすると彼女もフォーラムというセミナーを受けていることが分かったのでした。
ときどき明田さんとはそのセミナーの話をしました。それからは家が近かったのでよくお茶を飲んだり食事をしたりしました。
お互いに深い話もするようになりました。

彼女はほんとうに純粋で正直で感性ゆたかなすばらしい女性です。
今までにあった人のうちで彼女ほど気持ちの純粋な人は見たことがありません。
そして編集という仕事に関してもすばらしい実力をもつ編集者です。
彼女はV社で仕事をしたのち、フリーの編集者として西荻窪の自宅で編集の仕事をしていました。ほんとうに心を分かち合える友です。私が会社を辞めてしまっても時々会っていました。

マヤンオラクルの企画書を書いてくれたのもこの人。
そのおかげで本ができました。翻訳が出来上がったころ、私はK出版を退社していました。
バイトをしながらアパートで、マヤンオラクルの最終的な見直しをしていました。
カード44枚のついた特殊な本は経費のかかるものでした。
3回ほど出版社の人に会いましたが「これはお金がかかりそう」という理由でみんな断られました。
明田さんは「とにかく企画書を書きましょう。手伝うわ」。
企画書がどういうものかは知っていたものの私にとっては初めて。

まず、私が彼女のアパートに1泊し、その次彼女が私のアパートに泊まり込んで、私の訳を読みながら2晩で企画書を書き上げてくれました。
ほとんど彼女が書いてくれたようなものでした。
そのころの私はワープロもうまく打てず、ハイフンと伸ばす音のキイさえ区別できない状態でした。

平成8年は年の初めから会社では新しい企画で盛り上がっていました。
キヨ・佐々木モンロー女史が来日しました。
彼女は福岡出身の女性でアメリカ人と結婚し、ボストンでスピリチュアルな活動を支援し、自らも講演という形で多くの人々を覚醒に導いていました。
彼女が完訳した「クリスタルの階梯」という本がコスモで出版されたところでした。
またその年には彼女の初めての著書「****」が違う出版社で出版されたところでした。
彼女はコスモと共同して、まずは津田ホールを皮切りに日本縦断の講演会をすることになっていました。

ある時、北海道の男性からモンローさんの講演に関して問い合わせがありました。
まもなく、彼の奥さんから丁重なお礼の手紙が届きました。
「宮下さんにとても親切にしていただけた」と書いてありました。
それからその女性J子さんとの文通が始まりました。
信じられないほど彼女は私を援助してくれ、おかげで何度も生活、つまり、K出版を辞めてしまって路頭に迷うところを彼女に助けられました。

ある日、私の銀行口座に彼女がお金を振り込んでくれたりしたのでした。
そんなことが3回もあったのです。
彼女は常に私を励まし支え、元気づけてくれました。
彼女も人生の波に呑まれそうになっている状態でした。
今も姉妹、親友、親子みたいに人生を分かち合っています。

人生の旅は、かつて会った人たちに再会するための旅かもしれません。
本当にそうかもしれません。
上京して数え切れないほど多くの人たちに出会いました。
私の前をただ、通り過ぎて行く人もありました。
それでもこの職場を通じて何らかの形で関わった人々とは、今もつながっているのです。
チャネラー、著述者、ショップ関係の人、セミナーを受けに来る人たち、電話を取り次いだ人、電話で本を注文してくる人たち、とにかく何人もの人々と出会いました。

次は、「10.翻訳の始まり」