3.人生の出来事

「人生のできごとはすべて必要なことしか起こらない」
これは私がしっかりと信じていることの一つです。
私たちは人生に起こることをよいこと、悪いことといって区別しますが、よいことも悪いことも関係なく必要なことが起こっているようです。

人生にはどうしても体験する必要があることしか起こらないようです。
しかも、それを自分が選択している、結果的にもそれをどうしても選択してしまいます。
それは指紋の形が一人一人違うように、その人が必要とすることだけを体験するようです。

小学校一年生の時、母親の使う包丁の柄から刃の部分が抜け落ちて、私は大怪我をしました。
あごを斜めにかするようにして包丁の刃が落下していったのです。
いまだに傷痕があります。よくまじまじと顔を観られることがあります。

私の子供たち三人は、母親の顔に生まれてからずっとある傷なのでどうしたのとも聞いたことがありません。
この傷さえも必要だったのでしょうか。母にとっても私にとっても一生拭うことのできない人生の大きな重荷になってしまったことでした。

岐阜市神室町に生まれた私は5才のとき、第2次世界大戦を体験します。
小さな街の印刷屋はあっけなく全焼してしまいます。岐阜には基地があったので米軍の攻撃の目標にされたのでした。
印刷業を営んでいた一家は焼け出されたあと、いったん母の田舎に移り住んでいたのですが、家業再開のために岐阜市内の親戚の家に身をよせます。

一家8人が狭い二階家に間借りして、土間に印刷の機械をすえ何とか印刷の仕事を再開したのでした。
狭い路地の奥の長屋の一軒に二家族が住みました。
台所を工場に改造したので、母は家の外にある共同の井戸の流しで食事の用意をしていました。
そこでお菜を刻む母に遊んで帰ってきた私は色々な話をしたのです。母は絶えず何かしていました。

私が小学校に入学した年のこと、夕食のために菜っ葉を刻んでいた母を見上げるように話しかけた私に、包丁の刃が柄から抜け落ち、私のあごを斜めに切りながら落下していったのです。
その日は日曜日。父は血を流しながら泣く私を近所の内科のお医者さんに抱いて走りました。とにかく出血を止め、そのお医者さんに傷を縫合してもらいました。

「お前は傷物だから結婚できない。手に職をつけてひとりでも食べてゆかなくては。ほんとうにすまないことをした」父は何かにつけて私の傷を見て言うようになりました。
私はそれほど傷のことを気にしなかったのですが、父母はことあるごとに、「響子にはすまないことをした」と悔やみました。傷は割ときれいに治りました。一本の筋がほんの少し、盛り上がっている状態でよく見ないとわからないほどです。それでも私は毎日この傷と対面するわけです。

年頃になるとやっぱり写真には歴然と写るあごの部分の傷は、劣等感の一部にもなりました。
美人でもない上、こんな傷が顔にあることだけでも自分の女性としての価値が下がる……と思いました。

この怪我も必要があって起こったのでしょう。
考えるとこの傷のおかげでよい思いをしたのも事実でした。この傷は有利に作用したのでした。
「お嫁に行けない」私は自立してひとりで生きて行かなくてはなりません。父はそんな私にモダンバレー、そろばん、歌、お習字、学習塾とその時代にはぜいたくなほどの習いごとをさせました。

ちょっと声がよかった私を父は歌手にしたかったようでした。
今、考えてもこれこそ親馬鹿。
父親の愛の錯覚でした。あごに傷があるうえに真ん丸顔。それに太っていた私の顔の真ん中には低めのダンゴ鼻がのっかっていました。
歌うときは手で鼻の穴だけは隠さねばならない……と思って、どうしてこんな顔で歌手になれる?結婚できないものがどうして歌手になれるの。お父さんはおかしいと思っていました。この錯覚は父の愛情だとも。

小学校から中学に入るころは特に太っていました。
兄や弟はそれを承知でよく私をいじめました。喧嘩のとき「響子のぶーた」と言えば、勝ち気な私がひるむことを十分計算していじわるをしたのです。
兄はときどき私を見ると、洗たくばさみで鼻をつまむまねをして「やっとけよ。高くしなあかんからな」と言いました。
言葉の力はすごいです。私は完全に自分が醜くスタイルも悪く、お嫁にも行けないと毎日思いこまされてしまったのでした。

「思いは実現する」ということ、これは事実です。
怪我をしてからの私は、お嫁入りすることがひとつの目標になりました。
父の「結婚できない」と言う父に反感を抱き「じゃあ、結婚してみせようじゃないか」という私の反骨精神はじょじょに力強いものになって行きました。 お嫁入りの条件だって整えなくては……とも思いました。

最終学歴は短大にしよう。4年制の大学に入ると結婚が遅くなる。高校はこの学校に行く、そのあと、この短大に入る……私はよく予想履歴書をノートのすみに書いていました。
面白いことに私はその通りに学校を卒業したのです。

昭和三十年代の初期には、女性が4年制の大学に入学することは「婚期が遅れる」というのが一つの常識としてまかり通っていました。
せめて24才位までにお嫁に行かないと女性として恥ずかしい、などという考え方が普通でした。

父の意見で短大に進むことになりました。
兄たちは反対でした。私はどうしても学校に行きたかったわけではありませんでした。
高校時代、水泳部に席をおいていた私は、練習のために勉強がおろそかになっていました。とくに数学が苦手だった私は、あるとき屈辱的な成績を取ってしまい(ああ、これこそ人生の終わりだ、これでいい結婚ができなくなる。なんとかしてこの成績を塗り替えてしまわねば。そのためにも上の学校に行かねば。)と単に思っただけだったのです。

実際、結婚して必要なものは学歴ではなくセンスと向上心と愛の心でした。 夫婦だといっても、もともと違う人格の二人が寄り添うものです。お互いが違いを認めあって自由を束縛せず、それでいてその違いを尊敬しあえる関係がいいと思います。
夫が妻を所有するのではありません。
本来人間は自由を愛するものです。

それに人生の流れは、変化に富んだ川そのもの。いくら神前で誓った愛も時間とともに変化するのが当たり前、それより二人が学び合うことが本当に大事です。
二人が心の学習をしあいながら生きて行くことが大切でした。
それに相手を愛で観察することも。

さて、私が行きたいと思っていた女子短大では毎年、シェクスピアの戯曲を学生が全編英語で上演していました。私は「あの学校に行こう」と決めていました。入学した年は主任教授が病気で倒れ、シェイクスピアの戯曲上演がなかった年でした。
その代わり学内では文化祭がありました。それは、学長賞がもらえるコンクールでもありました。

病気療養中の教授からは、「文化祭では何か英語関係の寸劇をしなさい。黒いドレスを着て並んで詩を朗読するのはどうかしら。クラスで相談して決めて頑張ってちょうだい」と伝言があったのです。私は人生ではじめてクラス委員になったときでした。もう、チャンスがない……一生、クラス委員にはなれなかったと思っていた私は今度は選ばれたのでした。

黒い服着て詩を朗読するなんて地味な出し物には気乗りがしませんでした。どうせやるなら目立つことをしたいという思いがむずむず湧いてきました。
クラスで文化祭に何をするかを決めるとき、私は議長をつとめながら自分の考え方をまっさきに打ち出しました。
「ねえ、何かおもしろいことしよう。例えば、創作劇するとか。
このクラス、女性ばかりだからちょっと笑えるような創作劇を作って。
そう、例えば、かぐや姫をもじってやってみない」。

私は得意になって思いついた喜劇のあらすじをとうとうと述べ、全員を納得させてしまったのです。その挙句「あのう、私、監督になる」「女中の役もしたい。ズーズー弁で女中の役してもいい?」と口走っていました。

結局、「かぐやの君と女達」という爆笑ドタバタ劇を家で徹夜して書き上げました。
昭和三十年初期の頃のことです。
私たちは男の人と話をすることさえあまりありませんでした。今風にいえばかぐやの君に結婚を申し込む逆ナンパの物語。
私たちが真剣に演じれば演じるほど会場は笑いの渦。静かに見ていた先生たちも最後には笑い転げていました。結果は学内で二位でした。

病気が癒えて戻った教授、祖父江女史は私を研究室に呼び出しました。
「英語の詩を朗読しなさいといった私を無視して、何ですか、恥ずかしい。喜劇をしたんですって。英文科の学生としての誇りを忘れて、いったいどうゆうことなの。」教授はいつになく大きな声で怒鳴りました。
その年は「真夏の夜の夢」が上演される予定だったのです。

研究室を出て廊下を歩いていると、スリッパの音がします。
内田助教授が私を追っかけてきました。
彼は祖父江女史の家来のような存在でした。ひどいなで肩でやせていて、いつも小さな女性的な声で授業をするので、私はいらいらし、ひそかに「シッシー」と習い覚えたばかりの言葉(女性的な男を軽蔑する言葉)をニックネームにしていました。
彼は「吉村さん。祖父江先生には僕も叱られていまいましたが、本当にみんな楽しんでいましたよ。
それにいくら喜劇だといっても、学内ランクで二位をとったのですから。本当によかったです。ありがとう。これ、僕の気持ちです。クラスで配ってください」といって出演者の人数分の鉛筆とノートを手渡してくれたのです。その日から私は内山先生をシッシーと呼ばなくなりました。

クラス委員になる。これも私のひそかな夢の一つでした。
小学校のころ、兄、弟、妹はクラス委員になっていたのに私だけは小、中、高等学校のいずれでも委員にはなれずこれで一生委員になれないのか……とがっかりしていました。
負けず嫌いの私にとって、それは兄弟に対しても大変な屈辱でした。
小学校のときは立候補したのにたった七票しか投票されませんでした。何とかして一生のうちでクラス委員になるのも……私が掲げる夢のひとつでした。
それを短大のときに実現しました。

ちょっとすっきりしたのを思い出します。
私にはあと3つの夢があるのですが、まだ実現していません。
中学生のころからナイアガラ瀑布を見ること、ピラミッド、グランドキャニオンを見るまでは死なないというコミットがあるのです。この3つはまだなのでこれから行くことになるでしょう。

次は、「4.転校生」