第三章 1.義母の法事

一昨日は義母の法事でした。
去年のいまごろ亡くなりました。
義母は平家の流れをくむ名家の出身で、大西という大名の血をひいた人だと聞いたことがあります。

義父とは再婚同士です。
夫にとっては継母です。
性格的には、一般的な分類のどれにも属さない人でした。
私には、彼女の性格はある種の精神異常からきているのかもしれないという疑問がいまだにぬぐいきれません。

結婚当初、私は彼女の言動が理解できなくてよく泣きました。
「気違いやからしかたがない」と夫はいつも言いました。
新婚のころ、皮の手袋をやっとの思いで買って、高校生の義妹にプレゼントしたことがありました。
年末でもあったし二週間たっても届いた返事がなかったので、私は心配になり、夫に「手袋届いたか今度電話があったら尋ねておいて」と言いました。

そのころ私たちの家には電話がありませんでした。
それにあまり歓迎されなかった結婚でした。
実家への連絡はいつも彼に頼んでいたのでした。
二日後に葉書が届きました。「お礼がほしいようなものなら私のところでは要らないから送ってくれなくてもいい」と書かれていました。

姑は晩年、体が硬直し二年半、ベッドの上の生活をしていました。パーキンソン氏病でした。
彼女とわたしは20年近くの四国への転勤生活のうちに心を通わせるようになりました。何度そっけなくされても私は彼女にすすんで話しかけました。
名古屋に移転が決まったときも「ああ、響さん、あんたはもう四国には帰ってこんのかな」と言いました。「大丈夫です。また帰ってきます」私は心にもないことを言ったことを憶えています。

彼女は私が四国に戻ってきて一年半で亡くなりました。ほとんど意識のないまま病院で横たわっていました。意識があったころはベッドで「えらいわあ。早う死にたいわ」といつも言っていました。
体全体が萎縮し、内蔵が圧迫されて苦しかったのでしょう。
彼女が亡くなったのは急に決まった旅行で海外に出ていたときでした。
カンクンのホテルの朝食時に長男から電話が入りました。(お葬式には間に合わない……これは大変だ。あの封建的な田舎のお葬式に嫁がいないとなると……でも、いいか、しかたない)

成田に向かう飛行機から電話をしたとき、お葬式に間に合う事が分かりました。翌日が友引だったから葬式が延びたのです。
成田を出てすぐに新幹線にのって坂出から義母の遺体に体面したとき、(よかったね)と心で言いました。幸せそうな死に顔でした。

今、思えば義母は自由な気質の人でした。
本音でものを言いました。お世辞も言わなかったし、お上手も言えない人でした。嫌いなものは嫌いで徹底的にそれを言葉で表す人でした。
病院のベッドに横たわっていたころ、入れ歯がだんだん合わなくなって取り外したあとは何を言っているのかよく分からなかったのですが、あるとき、これはうちの長男が耳にしたのですが、お見舞に行った義父を見て「ぞうさは、あにやあ」という意味不明なことを言ったことがあったそうです。この意味の分からないことばはあとになって分かるのです。

そのころ、わたしは一週間に一度、病院に義父を車に乗せて病院に行きました。
義父はまず、ベッドのわきに杖をおいて、「かあちゃん、元気しとるんな?はよ、ようならんとあかんえ。
リハビリもせなんだら手が動かんようになるからの」と言いながら、義母の縮んだ手首をもち上げ、ごつい手で一心に指を一本いっぽん開こうとします。 そのたびに義母は痛がって身をよじるようにして「えだいが(痛いがな)」という言葉になっていない言葉で抵抗していました。

見ていてかわいそうで仕方がなかったのですがなんともできません。
そのあとは必ず「口が乾くからの」と言い脱脂綿を濡らして、歯のない義母の口をむりやり開かせてごつい指を義母の喉の奥深くつっこんで痰をとるのです。
義母はそれこそ苦しがって涙を出すこともありました。
私はいたたまれなくなったことが何度もありました。義父はほんとうに彼女に早く元気になってもらいたい一心でやっているのです。それは分かるのですが、ほとんどものも食べられないようになって点滴で生きていた義母の小さくなった口をこじ開けるのです。

私は思い余って義妹に相談しました。
あまりにも義母がかわいそうでしたから。「父ちゃんに言ってもあかん、言うこと聞かんから」「ばあちゃんが『父ちゃんは鬼や』って言ってるやろ」、と言いました。
ああ、なるほど。やっと私は理解できました。「ぞうさは、あにやあ」は、「父ちゃんは鬼や」でした。私も何度もその言葉を聞いたことがありました。 彼女は私を見て何度も訴えたかったようでした。
義母は水分がとれなくなってから、点滴で一年あまりベッドの上で生きていました。

もう、彼女が死んでから一年が経ってしまいました。
冠婚葬祭のための妻の役専用の私は、2日前から夫の実家に行き掃除をしました。
法事の日はまだ寒くて暖房の効かない田舎の家は冷え冷えしていました。
イベント好きな元会社部長の夫は生き生きと指図します。
「うどんが16。お膳は20。部落の挨拶が19。子供の折が3」「9時になったらお客さんがぼつぼつ来るからうどんをすぐに出して。そのあとお寺さんが三人、湯飲みでお茶をだす。それからお経が始まって一度中休みがある。そのときに一般のお客には駄菓子、それでええ。坊さんには生菓子をお茶と一緒に出す。灰皿もあるか。もっと大きいのがええ。ない、ま、いいとしよう」
私と義妹は買物に出かけました。花、駄菓子、うどん、飲み物、ビールなどを供え物と一緒に袋に入れて参会者の一人一人に渡すためのものです。山ほど乾物を飾り付けた大きな盛りかごも届きました。

四国ではどんなときにもうどんが出ます。法事の席も例にもれず参会者は全員うどんを食べます。おみやげもうどんです。法事が始まる前にもまず、お茶とうどんでもてなします。

そのお汁がおいしいと評判をとった私は今回も「うどんのたれ係」でした。 うどんの本場の人たちに「おいしい」と言ってもらったことは、ちょっとした快感です。
私のたれは秘訣もなくただ、材料をけちらないだけの話です。
締まり屋の人は昆布もいりこ(だしのいわし)や椎茸も安いものを買ってくるようですが、わたしは最高に近いものを買ってきて作ります。
お醤油も塩も酒も吟味します。だから、おいしいのかもしれません。「この前の四十五日のうどんのたれはおいしかった」と義妹がまた言いました。
材料に加えてちょっとしたコツはだしのあくをとることです。「いりこの煮立ったところに焼き火箸をいれてあくをとるの」わたしは四国でうどんのだしの取り方をみんなに伝授したのです。
じつはNHKのテレビでやっていたのをうんと前に観ただけのことです。

さて、義父は教育長を長く勤めたことがあった人で根っからの先生です。去年も短期間入院したとき、家庭医学で読んだ知識を振り回し、いちいち注文をつけるので看護婦さんに嫌われました。
夜中でもベルを押してなんやかやと注文をだすので、同室の人たちもうるさがってみんなが病院に文句をつけたものですから、院長にうまく言いくるめられ、とうとう個室に移されたという武勇伝の持ち主です。

地元では長年校長を勤めたり教育長をしていたということで一目おかれている人です。
そんな意識があるからでしょうか、決して横柄な人ではないのですが、看護婦さんにも当たり前のように色々注文して、ひんしゅくを買っていたと聞きます。
年をとると人の意見が聞こえなくなったり、何か言われてもそれを反省しなくなるのでしょうか。ああ、気をつけなくては。

義父はこのごろとみに耳が聞こえなくなり、足はひざの障害で歩くときは、二本の杖に体重をかけ、「よっこらしょしょしょ」という奇妙なかけ声を自分にかけて立ち上がります。
かなりの喫煙家で92歳の現在、一日にたばこを一箱位吸います。

法事のときも杖で指図しました。
「そこの座布団がまっすぐやない」「うどんがまだ来ん。大平さんに言うとかんとあかん」「昨日ここにあった花は墓にもって行くんやから捨ててはあかん。その新しい花はもうちょっと切ったほうがええわな。仏壇のほこりは取ったんか」「うどんがまだ来とらん。早く大平さんとこへ行ってもらってこなあかん。時間は大丈夫か」次から次と指図がとびます。ストーブの前の椅子にすわって指示しているのですが、耳が遠いので声が当然大きくなります。「分かった。もう、うどんは頼んどる。さっき、大平さんがちゃんと時間にもってくるから言うとったがな。」と夫や妹が顔をしかめながら耳元で大声を張り上げていました。

田舎は、自宅で法事をすることが多く女性は大変です。
家の法事なのに地元のしきたりどうりに餅はいくつ、果物、菓子、折など全部袋につめて部落の人たちに「本日、無事に法事が終わりました。ありがとうございました」と配って歩きます。わたしは腰も足も痛くて行きたくないと夫に言いました。夫は「みんなあんたの顔知らんから嫁さんとして顔見せなあかん」と言いました。「行きたくない」とわたしは言いきりました。
夫は怒りをあらわにしていました。「もう、ええ。わしが行ってくるわ。」長男が険しい表情でわたしから袋を奪い取るようにして夫を追って玄関に出て行きました。
とにかく疲れました。帰りの車で居眠りしそうになって私は家に帰る前に大衆温泉によりました。
ときどき日本舞踊の研究をひそかにしているところです。

健康ランドで

法事がすんだあとで行った健康ランドには、里見要次郎一座とのぼりがにぎやかに立っていました。私が入っていったときは大衆芝居が終わったあとで、歌謡ショウをしていました。
女形のおどりはなかなか妖艶でしたが、間寛平をぐっと老けさせたような猿顔の人が踊ったときは笑いそうになりました。
かなりのお年の人でした。テープで顔のたるみをあげて粋な男衆を踊るのですが動くたびにテープがライトに反射して光ります。踊りはたしかに上手でした。姿もまあまあ、顔のしわテープも許せるとしても寛平が深刻に踊っていることは許せません。(あの辺でアヘアヘとやるのかな。いつやるの)私はずっとそのことばかり考えていました。
でも、最後まで「アヘアへ」はありませんでした。

その日、ゆっくりとお湯につかってでっかいお座敷でちょっと眠りました。毛布をしいて体を横たえるとほっとしたのでしょうか知らない間に眠っていました。
畳を踏む音で目がさめました。目を閉じたまま、この足音は誰かのもの、どこかでたしかに聞いた覚えがある……母の足音だ……私にはそう思えました。 あの太った体を運ぶ時の音。何かを運んでいくときの音。畳に体重をかけて歩く音でした。わたしはそっと目をあけて歩く人を見ました。
その人は小さな声で「この枕と毛布をここにおいて」と一人言を言いました。 数年前の母とよく似た体つきをした女性でした。ざ、ざ、ざと畳の音が続きました。私は流れ落ちる涙を拭こうともせず、岐阜の病院で静かに命の終わるのを待っている母のことを思い続けました。(会いに行きますから、待っててね)生きていてくれるだけでありがたい……母とはそんな大きな存在だとこのときしみじみ思ったことでした。
母を思うたびに幸せでいなくては……と思いました。

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