3.楽しみその2

この頃少し気が長くなった気がします。
ある人が「人間は息をしているだけでも進化する」と言いました。

私は以前、年齢とともに生活習慣に慣れて、物事をうまく処理することができるようになる──と思っていました。
たとえば、整理がうまくなる、お掃除が好きになる、根気がよくなる、集中力が増すなど自分の欠点が年とともに改善されてゆくと思っていたのです。

ところが相変わらず部屋は油断するとあっという間に散らかってしまい、ひとつのことをかたづけないで次に行くという癖も、3つのことを同時にしようとする癖も治りそうにありません。
意識して号令をかけて自分を叱咤激励しないと部屋の掃除ができないという一種の慢性病もまだ治っているわけではありません。それでも気が長くなったのでいらいらすることは少なくなったと思います。
「部屋がかたづいていないといっても、やりたいことがあったらそれを優先させよう」と思っているからです。

最近は人生経験のおかげでしょうか、少々のことでは慌てなくなっています。動作が少しゆっくりになったせいで、落ち着いているように見えるし、日本語の語彙は確実に増えていますし、表現もうまくなりました。

子どものころの私は話の要領が悪くて「いったい何を言おうとしているの」と言われることがよくあったのですが、今では話のテンポが遅くなり、話しながら自分の耳で自分の話をきく……ということもできるようになっています。
話が分からなくて聞いている人が、じれったがったりすることもほとんどなくなりました。それに最近では聞くほうが楽しいことに気づき始めています。話をじっくり聞けば聞くほど相手は私が話上手だと錯覚を起こしてくれるようです。

子どものころの私は、感情が先走って自分が言いたいことがうまく言えませんでした。ずいぶん誤解を受けました。うまく自分の気持ちを伝えられなかったし、なぜか本当のことが言えませんでした。

「いい子」を演じないと人に嫌われると思い込んでいたからです。これを言ったら嫌われてしまう──と思った事は、絶対口にしませんでした。
私にとってはこれは当たり前の護身術。本当のことを言ったら相手はけんかをしかけてくると本気になって思い込んでいたのです。7人の大家族でたえず兄弟げんか、親子げんかの嵐の中で暮らしていた私です。

とくに父と一番上の兄は相性が悪かったのでしょう、ときどき烈しい言い争いになりました。父は2番目の兄にはとても寛容でした。
上の兄には些細なことで注意をしました。挙句の果ては大きな声でけんかが始まりました。兄が何かを壊す音と父の叱声とが混じり合いどちらかが家を出るドアの音で静かになりました。そんな訳で私は今でも男性がののしり合う声はぞっとするほど嫌いです。

ときどきいろんな集まりに行くのですが大抵私が最年長。
人もそういった常識的な視点で私を眺めます。たしかに「人生とは」みたいな達観的ものの考え方、つまり早く言えば「あきらめ、ゆだね──」に似た感覚が備わってきました。
それと人生の貫禄らしきものがオーラとなって立ちのぼっているかもしれません。(人間をし始めてから?年になります。ちょっとは体験しているので……)なんて偉そうに心のどこかで思っているのでしょう。

その思いが変な色のオーラになってうるうると私のまわりに漂っているかもしれません。その証拠に若いお母さんがちょっと「困っているんです」なんて言うものなら、でしゃばっていろいろ教えて上げたくなってしまいます。
何か言ってあげたくてウズウズしてしまいます。

まだときどき原因不明の落ち込みをすることがあります。そんなときは無気力で自分のことがまるで価値のない存在に思えます。私は落ち込みを理由にお掃除をさぼり洗たくもさぼり手紙の返事をかくのも電話のコールバックまでもさぼります。

ある本に「あなたはそのままでいい。どうしてもしなくてはならないことなんてありません。自分を許し、愛してください。」と書いてありました。
(なるほど、自分を大切にするのか)私はうれしくなって(これ、採用!)とばかりに家事の優先順位を下にします。

流しのなかには洗っていない皿や茶碗が散乱。猫缶、犬缶までがキャベツやにんじんのきれっぱしといっしょにプカプカと水に浮かんでいます。 
水の匂いまで変です。当然、片付けるまでは台所に入りたくなくなります。 そうなると駅前の惣菜屋さんの白い容器が増えて行き不燃焼物の袋を満タンぎりぎりの所まで来て号令かけて掃除を始めます。

「ごめんね。落ち込んでいてもう死にそうだったの。電話もできず、手紙も書けなかった。許してね。」 
そんなときの私は言い訳ばかり。迫真の演技で自己正当化をやります。それを自分にも言い聞かせ、間違っても自分が自分を責めないように演技力でカバーするのです。相手は私を落ち込んでいるといって非難しているわけではないのに。

このごろは、自己正当化もしません。含めて自分を隠すことがなくなリました。そういう意味では自然体で生きるのが楽にできるようになりました。
それにしてもこんなに自分をさらけだしてもいいのか……と反省したりするのですが、以前自分を隠していたころよりも、生きることがうんと楽になってきました。
軽蔑されたらそれでもいいや……という妙な開き直りもできてきたのでしょう。それにありのままの自分を出せなかったのがやっと出せるようになってきたのかも知れません。 
今は真実に生きることが喜びになりました。いままでいい恰好をしていた部分がなくなりました。

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