自分が分かる本

『ひふみ神示』

1944年6月10日、岡本天明が千葉県印旛郡にある天之日津久神社に参拝したときから自動書記が始まり、その後16年間にわたり続いたメッセージを本にしたものです。

1814年の黒住教から始まり、天理教、金光教、大本教と続いた天下立て直しの神示の後のとどめの神示として「ひふみ神示」があります。
この神示の出所は、祟り神として忌み嫌われた「艮(ウシトラ)の金神」です。この神の本当の名前は、国常立大神と言われています。

シルバーバーチの所でも書きましたが、ヨーロッパでは、1870年代からモーゼズの霊訓、ベールの彼方の生活、シルバーバーチの霊訓などが出ています。
これらは霊訓をまとめた本として出版されています。

日本でも何らかのメッセージが出ているはずだと思っていたら、霊訓という形でなく黒住教から大本教まで宗教という形になっていました。ただし、最後にでた「ひふみ神示」だけが宗教とはなっていません。
別の項で、これらの関係について触れてみたいと思います。
以下に、「ひふみ神示]から抜粋したものと簡単なコメントを述べます。

1.神懸かり

「目に見える所からの通信は高度のものほど肉体には感応が弱くなり、暗示的となるものであるぞ、ドタンバタン、大声でどなり散らすのは下の下。神もフトマニに従わねばならん。順を乱すわけには参らん。高度の霊が直ちに肉体人に感応することはなく、それぞれの段階を経て感応するものであることを忘れてはならんぞ。下級霊は現実界と紙一重の所に住んでいるのであるから、その感応はきわめて強く、如何にも尤もらしく人民の目に映るものであるぞ。

高度なものは、その人民のミタマ如何によって、それと同一波調の神霊に伝達され、その神霊の感応によって表現されるのであるぞ。特別の使命を持つ天使は、最下級の霊界まで降ってきて、人民に特別な通信をなし、指示することもあるぞ。」
「浄化した高級霊ともなれば、人民に判るような感応は殆どないぞ。」
「神様でも大神様は判らんのであるぞ」

「人民の智の中に現れてくるときは、もはや大神ではないぞ。神であるぞ。」
「幽界は人間界と最も深い関係にあり、殆どはこの幽界からの感応によることを忘れるでないぞ。霊かかりの動作をよく見極めればすぐ判る。高ぶったり、威張ったり、命令したり、断言したり、高度の神名を名乗ったりするものは必ず下級霊であるぞ、インチキ霊であるぞ、インチキ霊にかかるなよ、たとえ神の言葉でも尚サニワせよと申してあろう。迷信であってもそれを信ずる人が多くなれば、信ずる想念によって実体化し、有力な幽界の一部をつくり出すことがあるから気付けておくぞ。無き筈のもの生み出しそれが又地上界に反影してくるのであるから心して下されよ。今の人民九分九厘は幽界とのつながりをもつ。胸に手をあててよくよく自分にサニワせよ。」

いわゆる宗教の教祖、霊能者や霊媒などが神あるいは高級霊からのメッセージだとして、信者などに「ああしろ、こうしろ」と言い、それを有り難がってその言われた通りに行動しようとする人がいるが、この部分を読めば、それは自分にとって非常に危ないことだということが分かると思います。

なぜなら、それは神からのメッセージではなく、下級霊や動物霊からのものであることが多いからです。彼らは単に興味本位だったり、いたずらだったりして我々にとって本当に必要なことは教えてくれません。というより何も知らないと言うことが真実のようです。

さらに我々人間は神の子ですから、自分の想念の力でもって幽界を創り出すことが出来ることについても触れています。人民の九分九厘は幽界とつながりを持っているということですからドキッとしますね。「自分だけはそんなことはない」と言い切れないですね。

「霊界に住む者は多くの場合、自分の住む霊界以外のことは知らない。その霊界が総ての霊界であるかの如く思うものであるぞ、霊界のことは大体見当つくものであるなれど、段階が異なってくると判らなくなるのであるぞ。
他の霊界は霊自身の持つ感覚の対照とならないからである。
人民界のことをよく知っている霊は、人民界を去って間もない霊か地上に長く住んでいた動物霊が、人民に憑依していた霊であるぞ。特別な使命を持つ天使は別として、人霊以外の霊で人民に憑依するのは、日本では天狗風(テングテキ)、仙人風、狐風、狸風、猫風などが大部分であるから気つけておくぞ。」

我々はどうしても霊界のことは霊が一番よく知っていると思いがちですが、このように霊界の仕組みを知れば、それが間違っていることが分かります。
下の階層にいる霊は自分より上の階層のことは何も知らないということです。ここにも書いてあるように、人霊以外でも動物霊などが憑依して人間をおもちゃにすることが多いようです。
本当の神からのメッセージであっても尚サニワをする位の慎重さが必要とのことです。

2.守護神について

「守護神には、「正守護神」「副守護神」「本守護神」の3種がある。
「霊的自分を正守護神と申し、神的自分を本守護神と申すぞ。幽界的自分が副守護神ぢゃ。本守護神は大神の歓喜であるぞ。」

守護神は神的自分、霊的自分、幽界的自分で構成されていて、本守護神になると大神と直接つながっているらしい。
※出口王仁三郎の霊界物語に、「精霊の善なるものを正守護神といい、悪なる者を副守護神という」とあり、正守護神とは「人身を機関として天国の目的すなわちご用に奉仕すべく、神より造られたものであり、副守護神なる悪霊に犯されず、よくこれを統御し得るに至れば、一躍して本守護神となり、天人の列に加わるものである」とある。

下記の6.の(霊界の構造)に、天人は天国に住んでいるとある。正守護神であった精霊(霊魂)が副守護神に影響されなくなり、天国の御用に奉仕できるようになったときに本守護神となり天国に住むことができるようになる。

3.神について

「全宇宙は、神の外にあるのではなく、神の中に、神に抱かれて育てられているのである。故に、宇宙そのものが、神と同じ性をもち、同じ質をもち、神そのものの現れの一部である。」

いわゆる神に祈るときは、神とは自分とは別のもの、自分の外側にあるものと考えている。しかし、我々人間が神の内にあるということは神と別なものではなく神と一体であることを意味する。すなわち神の子として、神の性質の一部を持っていることになる。

「大日月大神としてのこの神は一柱であるが、働きはいくらでもあるぞ。その働きの名がもろもろの神様の名じゃ。無限であるぞ。このほう一柱であるが無限柱ぞ。総てが神であるぞ。一神ぢゃ。多神ぢゃ。汎神ぢゃ。総てが神ぢゃ。喜びぢゃ。」
「一神説いて多神説かんのも片端、多神説いて一神を説かんのも片端、一神則多神則汎神である事実を説いてきかせよ」

よく西欧の宗教は一神教で、アジアの宗教は多神教だといわれる。
そして、一神教の方が優れていて、多神教が遅れているなどと言う人もいますが、それはとんでもない間違いのようです。
多神教の場合、色々な名前の神がいますが、それは神の様々な働きに対して名前が付いているが根元的には一柱の神、つまり一神であると。

4.神の守護

「神の守護と申すのは人間からはちっとも判らなんのであるぞ、判るような守護は低い神の守護ざぞ。悪神の守護ざぞ。
我が名呼びておすがりすれば、万里先に居ても云うこときいてやるぞ。雨の神、
風の神、岩の神、荒の神、地震の神と申してお願いすれば、万里先に居ても、この世の荒れ、地震のがらせてやるぞ、神々様に届く行で申せよ。」

我々はよく神に祈り、そして祈った結果がすぐにでないと文句を言う。ここでは結果をすぐに出すような神は低い神、悪神だという。
さらに神の働きとして、雨、風などの自然界の現象も神の働きであると明示している。

5.神と人間

「神は人間、人間は神であると申してあろう。人間の極まるところが神であるぞ。人間は神の土台ぞ。この道理判るであろうが。
人間は、色とりどりそれぞれの考え方を自由に与へてあるのざから、無理に引張ったり、教へたりするでないぞ。今あるもの、今生きてゐるものは、たとへ極悪ざと見えても、それは許されてゐるのであるから、あるのであるぞ。他を排するでないぞ。」

人間は神の分身であるから、神の持っている特性である創造力や真善美などを本来的に持っている。さらに、同じ個性を持っている人間は存在しないし、各自がそれぞれ個性を持ち自由に表現しようとするのが原則であり、それがその人にとっての成長の道である。しかし、その各自の表現の自由を邪魔しようとする人が多い。
それも小さな親切をする人に多い。(小さな親切大きなお世話)
その人にとっては悪にみえる(自分にとって都合が悪い?)かもしれないが、他の人の成長にとっては必要なのかもしれないのである。
だから他人を許すことが大切なのである。

6.霊界について

「霊界と申しても神界と幽界に大別され、又神界は天国と霊国に分けられ、天国には天人、霊国には天使が住み、幽界は陽界と陰界に分かれ、陽霊人、陰霊人がいる、陽霊人は人民の中の悪人の如く、陰霊人とは善人の如き性をもっているぞ。高い段階から申せば善も悪も、神界も幽界もないのであるが、人民の頭で判るように申しているのであるぞ。幽界は本来無いものであるが、人民の地獄的想念が生み出したものであるぞ。」

(霊界の構造)

※他の霊界通信とは、表現はかなり違うがどのような関係にあるのか?
また、幽界(いわゆる地獄?)は本来なかったのに人間の想念が創り出したものである。
「ベールの彼方の生活」には、霊界の階層と地獄のことがかなり具体的に書かれている。

7.死後の世界

「死後の世界に入った最初の状態は生存時と殆ど変化がない。先に霊人となっている親近者や知人と会して共に生活することもできる。
夫婦の場合は、生存時と同様の夫婦愛を再び繰り返すことができるのである。霊界は、想念の世界であるから、時間なく、空間なく、想念のままになるのである。
しかし、かくの如き死後の最初の状態は長くは続かない。
何故ならば、想念の相違は、その住む世界を相違させ、その世界以外は想念の対象とならないからである。」

霊界通信には、死んだ後自分の親族や知人と会い、その後、各自の自分の落ち着く場所に移るような表現がある。
しかし、霊界は三次元の世界とは異なり想念の世界であるから、自分の意識レベルに合わない世界に長くいることは出来ない。
それで各自の現在の霊的状態に応じた適切な場所に住むという。たとえ、そこが一般的に言うところの地獄であっても。

8.自力と他力

「神にまかせると申しても、それは自分で最善をつくして後のことぢゃ。努力なしにまかせるのは悪おまかせ多いのう。魂の財産は金を得るより数倍六ヶ敷いぞ。ぬれ手で粟のやり方、カスつかむぞ。
神から出るものは神にきまってゐるぞ。この平凡の道の道理が何故に判らんのぢゃ。得心出来んのぢゃ。それに従えばこそ向上、弥栄するのぢゃ。天狗ざから、慢心するから、神がなくなるから行詰まるのぢゃ。
神は人間を根本から永遠の意味でよくしようと、マコトの喜び与へようとしてゐるのぢゃ。局部的、瞬間的に見て判らんこと多いぞ。おかげは、すぐにはないものと思へ。すぐのおかげは下級霊。まゆにつばせよ。考へよ。」

宗教では、宗派によって自分の宗派は自力本願だとか他力本願だとか言っています。
しかしここでは、自分で出来ることはベストを尽くし(自力)、自分の力では出来なくなったら神に任せる(いわゆるお任せの境地、他力))ことが当然と言っています。そして、短期的によく見えるものは長期的には必ずしも本人のためにはならないものが多い。だからいわゆる奇跡は本人にとって必ずしもいいこととはいえないとも言っています。

9.霊界と地上界

「地上界に山や川もあるから霊界に山や川があるのではない、霊の山川がマコトぞ、地上はそのマコトの写しであり、コトであるぞ、マが霊界ぢゃ、地上人は、半分は霊界で思想し、霊人は地上界を足場としている、互に入れかわって交はってゐるのぞ、このこと判れば来るべき世界が、半霊半物、四次元の高度の、影ないうれしうれしの世であるから、人民も浄化行せねばならん、大元の道にかへり、歩まねばならん、今迄のような物質ではない物質の世となるのであるぞ。」

霊界にあるものが地上界にある。山や川も霊界にあるものの写しとして。霊界の景色を「ベールの彼方の生活」では具体的に表現しています。
人間は眠っているときには霊界に行っているのだということが言われますが、日常の時間においてもそうなのでしょうか。
立直しの後の世界は、3次元と4次元が交わった半霊半物の世になるらしい。そのためには早く浄化しなければ。

10.生きる道

「人間を幸福にするのは心の向け方一つであるぞ。
何事も天から出て来るのぢゃ。天からとは心からのことぢゃ。
宇宙は人間の心のままと申してあろうが。
心くらくては何も判らん。世の中は暗う見えるであろう。真暗に見えたら自分の心に光ないのぢゃ。心せよ。自分光れば世の中明るいぞ。より上のものから流れてくるものにまつりて行くこと大切ぢゃ。」

幸せになりたい、という人は多いけれど。どのようになったら幸せなのかがよく分からない人が多い。ここでは、自分が光れば、つまり宇宙の心に合わせれば世の中が明るくなり、幸せになることができるとある。

11.法則

「天には天の道、地には地の道、人間には人間の道あると申してあろう。同じ道であるが違ふのぞ。地にうつし、人間にうつす時は、地の約束、人間の約束に従ふのぞ。約束は神でも破れんのであるぞ。次元違ふのであるから違ってくるぞ。違ふのが真実であるぞ。それを同じに説いたのが悪の教。同じと思ふのが悪の考え方であるぞ。」

霊界も3次元も共通の法則で運用されていると考えがちだが、それは間違った考えであるという。我々はどうしても自分の見える範囲のものに縛られるので霊界についても我々の世界と同じに考えてしまう。その結果、我々の概念では理解できないのでそれは現実的でないなどと思いがちであり、そこから様々な誤解が生じてくる。
霊界、人間界それぞれに法則があり、人間は人間界の法則(3次元の法則)に従わねばならないのが真実であると。
よく自分に都合が悪いことが起こると、「神も仏もないのか」という人がいるが、自分のことは自分で責任をとるのが原則だから、自分で作ったメグリは自分でとらなければならない。それが法則である。この法則は神でも破れない。

12.真実の道

「道は口で説くものではない。行ずるものである。教は説かねばならない。多数決が悪多数決となるわけが何故に判らんのぢゃ。投票で代表を出すと殆どが悪人か狂人であるぞ。世界が狂ひ、悪となり、人間も同様となっているから、その人間の多くが選べは選ぶ程、益々混乱してくるのであるぞ。それより他に人間の得心出来る道はないと申しているのは平面の道、平面のみでは乱れるばかり、立体にアヤなせば弥栄えて真実の道が判るのぢゃ。ぢゃと申して独裁ではならん。結果から見れば神裁ぢゃ。神裁とは神人交流によることぞ。」

道と教えの違い。宗教は宗を教える、つまり教義を教えるのが宗教であり、道は自分で行じて経験して確認していくものである。
別のところではこれからの世は、宗教はなくなるといっている。
次に我々は多数決は民主的で公平なものであると教えられたが、ここではまったく違ってくる。
多数決は悪多数決になるという。大体、霊的レベルが異なる人間が集まっているのがこの3次元であり(立体である)、その中で、多数決で決めること(平面)自体に無理があるという。

13.カルマ済まし

「この道に入ると損をしたり、病気になったり、怪我をすることがよくあるなれど、それは大難を小難にし、又めぐりが一時に出て来て、その借銭済しをさせられているのぢゃ。借りたものは返さなければならん道理ぢゃ。損もよい、病気もよいぞと申してあろうが、此処の道理もわきまへず理窟申してゐるが、そんな人間の機嫌とりする暇はなくなったから、早う神心になって下されよ。そなたは祈りが足らんぞ。祈りと申すのは心でゐのり願ふことでないぞ。実行せねばならん。地上人は物としての行動をしなければならんぞ。口と心と行と三つ揃はねばと申してあること、忘れたか。
頭を下げて見なされ、流れて来るぞ。頭も下げず低くならんでは流れては来ないぞ。」

真実の道に入ると、始めは病気になったり、怪我したりなどのいわゆる不幸が起こるという。それは、過去からのカルマを精算するために起こっていることであり、本来大難であったものが小難で済んだりしているのだという。
一般的に損することや、病気することでカルマの解消ができるという考え方はあまりしませんね。

14.運命と宿命

「運命は自由自在のものであるが、また強いるものでもあるぞ、大きくも、小さくも、薄くも、厚くも、その人の心次第に変わるぞ。もとは霊界にあるからぞ。
宿命は宿されたもの。一つのワクに入っているのであるぞ。運命は自分で切りひらくこと出来るぞ。磨け磨け、ミタマ磨き結構。信念だけでは行詰まるぞ。嬉し嬉しで運命を迎へる気、結構ぞ。この世のことだけでこの世のこと動かんぞ。霊界との関係によって、この世が動いている道理判らねばならん。早う神の心に、神意さとれよ。遠慮いらん。何事も天から出て来るのぢゃ。天からとは心からのことぢゃ。
物質偏重の世はやがて去るべきにあるぞ、心得なされよ。
宿命と運命は同じではない、磨けばどんなにでも光るぞ。」

運命と宿命はどこが違うかと考えたことがありますか?
宿命は、例えば日本に生れたこと、男あるいは女に生れたこと、今の両親に生れたことなど自分の努力で変えられないことをいいます。
しかし運命は、自分で切り開くことが出来るのです。自分で計画してきた運命を予定よりも向上させることによって、自分の魂を磨くことが出来るというのです。
やってますか!

ここでは、ひつき神示のごく一部を紹介しました。
ダイジェスト判も出ていますので是非読んでみてください。
きっと色々な発見があると思います。